第一章 私と箱スカの出会い
伊藤:清水さんとスカイラインの出会いを聞かせてください。
清水:最初に免許とって乗ったのが箱スカのGC10。18歳の時でしたね。だから自分の中ではスカイラインは特別な想いがあったのです。スカイラインがなければいまこの仕事をしていなかったしね。世田谷の上馬にプリンスディーラー、渋谷の神泉に東京カローラでセリカを売っていた。スカイランかセリカか迷った。当時の価格はどちらを選んでも86万円前後。セリカは女の子をナンパしやすそうなので、オレはセリカが欲しかった。でも、オヤジの「日産のほうが技術は上じゃないの」の一言でプリンスの箱スカに決まった。2リットルのストロンバーグのシングルキャブ。それ買って大学行ったらクルマ好きが集まってきて大変な騒ぎだった。それがきっかけでラリーとかレースにぞっこんハマッタのです。それからガンガンと自動車人生を歩むことになりました。
伊藤:スカイラインが人生を決めたのすでね(笑
清水:はい、その通りです。その後のスカイラインは昭和50年規制でしょぼくなって、4~5代目から記憶が薄らいだのです。ジャーナリストになったときに再び箱スカと再会しました。でも都市工学とか訳の分からない宣伝文句をひっさげてましたから、ますます意味不明なスカイラインでしたね。日本ではクルマのイメージは言葉遊びが好きな広告代理店が作るのだと初めて知ったのです。技術屋さん達はあまり歴史など感心がないみたいでした。ですから、7thスカイラインと出会っても「これがスカイライン?」って失望したのです。
伊藤:なるほど
清水:しかし、希望の光も見えました。ハイキャスという四輪操舵技術が世界発で実用化したのです。日産の中央研究所の芝畑さんが開発した技術でしたね。リアのトーが油圧でアクティブに動くヤツ。当時、ポルシェのタイヤテストで928を走らせていたので、ポルシェのバイザッハアクスルはよく知っていました。日産はそれを油圧で動かしたのです。7thスカイラインで日産のシャシー技術の底時からを知りました。それからついに8代目のR32スカイラインが誕生したのです。R32GTRも復活し、日産が本当に世界一になると思いました。それでレースに復活GTRは650ps+4駆というスーパースポーツカーに思えたのです。4駆スポーツカーといえばポルシェのグループBの959しかなかったのに。
第二章 世界に誇れるクルマを作りたい
伊藤:R32を始めたのが1985年からですね。日本の自動車の歴史を見ると、最初は欧州車のOEMを作り、そこから自主開発しました。60年代から70年代にかけては排ガス問題、80年代からは安全対策。世界中の規格に対応しながら、世界を相手にクルマを作ってました。
清水:円高もありましたね。日本車がアメリカで売れるとアメリカはすぐ叩きました。その結果アメリカへの輸出規制です。実際は自主規制という縛りでしたが。
伊藤:ところが、欧州の日産の販売現場ではベンツビーエムと対等に戦えるクルマが欲しいと。でも、バカ言えと思いました。できるわけないと。それより安くて直接競合しないところをやったほうがいい。こうした事情は日産だけじゃなくてトヨタもホンダも同じだったのです。そこで日産の技術屋は世界のトップクラスを見返してやるという気運が高まりました。
清水:創生期、黎明期が60年代70年代ですからね。その後は日本車が売れた。安くて燃費がいい(円安)からでしたね。しかし、80年代は技術競争の時代となり、馬力史上主義となりました。日本車でどのクルマが200Km/hの壁を越えるのか。そのスピード競争を確かめるために、速度無制限のアウトバーンに行きましたよ。ホンダのCRXとか日産Zとかで。
伊藤:その頃、私は量から質への転換を感じていたのです。輸出ばっかでやっていてもしょうがない。急速な円高で会社もおかしくなっていたのです。日産だけじゃなくて輸出できないわけですからね。量産設備をもっていても、輸出できないわけだから、国内の市場をなんとかしないと。そこには付加価値の高いモノ。そういう気運がありました。トヨタはセルシオ、ホンダはNSX。
清水:日産の70年代頃はトヨタとシェアも拮抗していたけど、1976年頃からシェアが30%を割って、それからずーっと下がりっぱなし。一回上向いたかな。
伊藤:あの頃の85年頃のニッサンには何とかしないと。久米社長に代わり、日産の風土改革をやりました。お客さんに満足してもらうような商品を出さないとと。そのためにはクルマの開発方法と自分たちの会社を変えようと。そういう活動を結構やった。そういうのも32をやるときに、みんな燃えていた理由ですね。
清水:それじゃ901活動というのは85年頃に?もう一度技術で世界一を?
伊藤:実際には901委員会は86年の暮れでした。発端はシャシー設計からでした。シャシーも1970年代にヨーロッパにクルマを出してけちょんけちょん。アウトバーンの直進安定性とか。シャシー設計も高速安定性をなんとかしないと。1978年くらいに高速コンセプト委員会というのがシャシー設計部にできました。だからアウトバーンで250キロで走れる車を研究した。シャシーはやった。実際に会社として、パワーを出して新しいサスを開発しようとか、結びつかなくて、結局は研究で終わり、市販車としてはセミトレサスペンションを少しずつ改良してました。他社の進歩のレベルに比べると日産は遅いから、ジャーナリストからもけっこう叩かれたのです。
清水:あの頃、トヨタがロータスの株を買って、セリカXXのシャシーを研究していましたね。つまりトヨタはシャシーで悩んだときに欧州に答えを求めた。日産は?
伊藤:実はちょっとやったんですよ。
清水:どこと?ポルシェですか?
伊藤:そうです。シャシー部門がね。でもあんまり突っ込んでやらなかった。
清水:やっぱ日産のエンジニアはプライド高いから、最後は自分でやりたかったと。バイザッハアクスルを研究したのですね。ところで1986年に901活動が始まりましたがR32の企画が先だったのですか。
伊藤:32の企画が先です。85年の8月にR31を出して、みなさんにこてんこてんにやられて。でま、私も考えて。それで、R32のコンセプトを決め、901活動をスカイラインやろうと展開したのは86年の2月でした。
第三章 マークⅡ三兄弟との激闘
清水:伊藤さんは、スカイラインは欧州に出さないけど欧州車と戦えるようにと考えたのですか
伊藤:はい、欧州のスポーツカーに対抗できるように。
清水:BMWをイメージしたのですか?
伊藤:BMWとかベンツとか、コレというのはなかったのですが、最終的にはポルシェ944(ターボ)をベンチマークとしました。
清水:901活動が実際に86年に発足すると、開発エンジニアだけでなく評価ドライバーたちも、崇高なプロジェクトに巻き込まれていくわけですね。
伊藤:スカイラインの開発を前提にして第一回901活動は87年の3月に栃木のテストコースで行いました。シャシーベッドを使って前後のサスペンションを組み合わせて実車走行しました。
加藤:(日産が誇る評価ドライバー)私は901委員会という意識はなかったですね。伊藤さんの記憶スゴイ。901活動とはR32スカイラインが発表になってから会社が言い出したと記憶しています。
清水:加藤さんは人間国宝だから、901活動の崇高な評価は日常業務でやっている(笑)
伊藤:シャシーが最初に言い出しましたね、90年に世界一を目指すと。その活動の横展開は国内はスカイン、欧州がプリメーラ、アメリカがZ。(R32,Z32、P10)
加藤:そこで車両運動設計グループと新しい呼び方に変わりましたが、やっていることはかわっていない。
清水:加藤さんはやっていることは変わらないと仰いましたが、従来の開発と901を意識したR32スカイラインの開発はどの程度の違いがあったのですか?
伊藤:そりゃ違う。R31を復調するのにタイヘンだったのです。新RBエンジン、新しい4バルブも評判はよくなかった。ツインカムの4バルブはほかにもあったけれどマークⅡがダントツでした。性能的にはスカイラインはちょっとだけヨカッタのですが。昭和52年くらいまでは、日産のほうがローレルとかスカイラン、Lクラス、などシェアがトヨタよりも高かったのです。その後、トヨタがマークⅡファミリーにチェイサーが追加、そしてクレスタ。トヨタの高級路線がうまく行って、日産とトヨタとの差が縮まっていく。そこで昭和52年くらいにシェアは同じになった。
清水:記憶に残っていますね。マークⅡ三兄弟で一月に三万台以上も売っていましたから。
伊藤:それでもスカイラインとマークⅡは単独では1980年代初めまではスカイラインのほうが多く売れていました。マークⅡ連合軍では1981年くらいから逆転されましたが。
清水:そんなことがあったから、R31を企画するときに走りのスカイランではダメだと思ったのですね。あんちゃんが作業服を着て、隣に仲間を乗せて、よーいどんで交差点グランプリ。それに比べてソアラは背広を着て、洒落た香水つけて、おにいちゃんがカワイコチャンといちゃつくクルマ。80年代ってカオスだったのかしら。
伊藤:スカイランは信号が青になったらぶっ飛ぶというイメージが強く、スカイラインのイメージが悪くなったと言われていました。そのイメージをR31は取り返すために大人っぽい領域に足を踏み込んだのです。清水さんが理解できなかった都市工学ですね。だから走りのイメージをなくし、アバンギャルドな大人のイメージを作りたかった。ですから2ドアも出さなかったのです。でも、結果は失敗し叩かれた。
清水:叩いた記憶があるな(笑)
伊藤:だから僕はスカイラインをもう一回原点に戻って開発しようと心に決めました。それは求められる性能や機能はいっぱいあって、モノを運ぶとかね。でも、スカイランとは何?と歴史をひもといて、評判がよかったときも悪かったときもある。しかし普遍的なことは走る歓びだろうと。
欧州車は室内が広くて豪華で喜ばれた例はあまりない。スカイラインに期待されるモノを書き出し、何を優先するのか議論しました。走りとスタイル。でも、全部はできない、お金もかかるしね。優先事項は絶対にやると決めました。
清水:なるほど。ほかのクルマにないようなヤツが必要なのですね。7thのCDプレイヤー6連装を自慢していましたが「何だこりゃ」と思いました。そんなことやるくらいなら走りをよくしろとね。スカイラインに期待しないモノをいくらやっても喜ばないですから。
伊藤:期待される的を外しちゃいけないと肝に銘じました。ターゲットを絞ったクルマにしよう。スカイライン=走り。軽量でコンパクト、強力なエンジンに立派な足回り。荷物を積むとかキャビンが広いとかはクルマとし大切ですが、スカイランとしてどっちの優先は何か。それまでの日産は新車を開発するときに前のクルマよりマイナスになることはやらなかった。提案しても通らなかった。
清水:結局頭で考えるかた、ワケのわからないクルマだらけになったのですね。ところで開発主管がやりたくても通らないというのは、主管以上に、権力を持った人がいるのですか?
伊藤:そりゃいろいろと、、、営業サイドとか、売れなかったらオレが責任持てないから協力できないとか。大会社だから、プロジェクトの主管がこれをやりたいと思っても、プラモデルならできるけど。
清水:そのクルマでメシを食っている人がたくさんいる。日産の人、ディーラーの人、部品メーカーの人。
伊藤:だから失敗すると、ホントにミジメ。悪かったヤツをマイチェンで直そうとしても手遅れ。ぼくは何回もやって、マイナーだけ担当したこともあるけれど、失敗したヤツをマイチェンで直そうとしても直らない。イクラ手を打っても回復できない。だから最初から、失敗しちゃイカンと。スゴイ緊張感があるけれど社内の合意を得ないといけない。それでみんながよしこれでやろうという気になってくれれば、いいクルマは作れないのです。
清水:そこに901活動があった。
伊藤:世界一をやろうと。
第四章 イメージアップのための技術の挑戦
伊藤:R32の企画を提案したのは86年の2月ですが、会社として合意したのが86年の7月。経営会議のトップで決まりました。
清水:大きな会社なので提案から決定まで半年もかかるのですね。当時、ポティアックフィエロ(スポーツカー)の取材でGM本社を訪れましたが、GM広報は自分のレターが会長のデスクに届くまでに何週間もかかると苦笑していました。
伊藤:そこで次期型スカイラインはこうやって作って、スペックはこう、原価はこう、収益はこれくらい、販売はこれくらいを目標にと提案しました。経営会議で最終的に承認されますが、そこにいたる過程が大変なのです。多くの社内部署の合意を得ないといけません。その前にもっと大切なことはプロジェクトチームの合意を得ないと。
清水:でもみんなの意見を聞いたらまとまらない(笑)。
伊藤:はい。ですから僕がたたき台を出して、こういうスカイライン作るから「この指止まれ!」という作戦でした。そんなコンセプトはダメっていう人もいます。ボクは直さないといけないのは直して、直さなくていいのは直さない。殺し文句として社内で言ったのは「クルマはいっぱいある。しかし、どれ買っていいか困っちゃうでしょ。オレはこういうのが欲しいんだからこのクルマを選ぶってってパッと言えない。ですから存在価値のあるクルマを作らないといけない」と思いました。
清水:人間もおなじですね。アイツは勉強もそこそこできるし人付き合い下手ではない。だけどパッとしないのがいますよね。特徴がないヤツ。あいつは勉強がダメだけどサッカーやらせたら世界一とか。数学が得意、国語は苦手だとか。あいつは勉強だめだけど女の子にはもてるとか。
伊藤:そうなのです。野球の王さんにはホームランを期待している。いくら3割打っても、盗塁してもホームラン打てなかったら存在価値がない。スカイラインは走ってナンボだから、走らないスカイラインは存在価値がない。ある役員からはこんなターゲットを絞ったコンセプトでは年寄りは寄りつかないぞと脅かされました(笑)
清水:ところでR32はヒットしたのですか?
伊藤:結構売れましたね。マイチェン後にバブルが弾けてセダン全体が落ち込みましたがそこまではヨカッタ。スカイラインの販売も、ジャパンのときが絶頂で、モデル毎に10万台ずつ落ちたのです。累計ではジャパンが53万台、R30が40万、R31が30万台を切りましたが、R32は31万ちょっと。販売が低迷していた歯止めになりました。
清水:いちいち説明しなくてもわかるような存在価値がカギだったわけですね。
伊藤:86年の暮れに若手ジャーナリストを集めて意見を聞いたことがありました。スカイラインに何を期待しますかと。みなさんからの意見を元にして、自分が考えるスカラインがホントに正しいのか。
清水:色々な人に、ですか?
伊藤:スカイラインが大嫌いな人達から女性の意見、また、高校生やクルマ好きのおじさん。のべ600人くらいに聞きました。
清水:そこでスカイラインに対して何を望むのか、ですね。
伊藤:こういうスカイラインはどうかとR32の考えをちらちらと出しながら聞きました。その結果は、自分が考えた方向で間違いないと確信したのです。
清水:ところであのGTRはいつごろ提案したのですか?
伊藤:86年の経営会議で提案する前に、開発担当役員にGTR構想を打ち明けたのです。技術の日産のイメージを高める象徴が必要だと。
第五章 四輪操舵+四輪駆動
清水:GTRの話しが出てくると「それはプリンスの車」だという社内の差別はなかったのですか
伊藤:ぼくはプリンスの人間だからひがみもあるけれど完全にゼロだったわけではないですね。
清水:当時のトップは園田副社長?
伊藤:そうです。園田さんは話しを聞いてくれました。GTRはここで出さないといけない。技術の日産のイメージを強烈に打ち出さないと。
清水:かつての連勝記録をもう一度、グループAで実行しようと。
伊藤:レースで高性能や日産の技術をPRしましょうと。そのときにGTRを提案するんだけれど、R32に高性能エンジンを積んで走る。レースでは四駆を積むつもりはなかったのです。
清水:650馬力でFRですか。フォードのコスワースと同じ(自分も乗っていた)。
伊藤:なぜかというと、個人的には四駆はイメージになかった。なぜかというと、重くなる、値段が高くなる。またレースで四駆が勝った実績があまりない。故障する場所が多くなるし。
清水:それだけネガティブな要素をリストアップしたが、かなり腰がひける。採用しない十分な理由でしたね。では電子制御ETSを伊藤さんに売り込んだのは誰だったのですか?
伊藤:中央研究所(総合研究所)だけど、その前のモデル(GTSR)でもグループAのレースをやっていいというお墨付きをもらってあるので、せっかくだから勉強も兼ねて四駆を急遽作ったのです。だから役員会にも承認受けないでね。GTSRのレース用を設計してくれと頼んだらシャシーとかエンジンとかから断られました。「そんなヒマなんてない、なぜ会社が苦しい時期にレースをやるのか。レースはR32でやるんだから32でいいじゃないかと」というんで困っちゃいました。
清水:ぼくはフォードコスワースでグループAに乗っていて、亜久里(鈴木)がGTSRに乗っていましたね。四駆にしようというきっかけは?
伊藤:結局、四駆にしたのは、GTSRでシエラに対抗しようとすると、パワーを上げる。パワーを上げていくと、アクセルを踏めなくなる。じゃあどうしようかで。タイヤはこれ以上、レギュレーションで大きくできない。じゃあ四駆しかないかなぁという三段論法で四駆に行きつきました。
清水:レースで勝つために四駆になったのか?
伊藤:まあそうですね。
清水:市販車だけならFRになっていた?
伊藤:いやね、どうなのですかね?ぼくの考えは違うかもしれないけど、レースは二駆、市販車は四駆でいいかもしれないと考えていましたから。
清水:一般の人が乗るGTカーは安全性や全天候を考慮して四駆。それでポルシェ959を買って評価していたのですね。
伊藤:迷っていました。一方で、レースはサーキットは四駆じゃないといけない。これ以上馬力あげるのは難しいという意見もありました。
清水:栃木にぼくも連れて行かれて、スキッドパッドでプロトタイプをテストドライブしました。
伊藤:実は市販車の研究開発の段階ではR31で四駆をやるはずだった。ファーガソンタイプのメカニカル四駆です。マイナーチェンジでやることを進めていた。
清水:センターデフをオイルパンの中に入れる、ベンツの4マチックと同じやつ?FRベースで!
伊藤:そうです。四駆はすぐできた。
清水:それでR32ではセンターデフを油圧電子制御にしたのですね。
伊藤:そうです。ところが、R31を出してみなさんに叩かれて、スカイラインの四駆はこれでいいのかと見直したのです。それでスカイラインとしては電子制御がふさわしいと思いました。
伊藤:メカタイプは基盤技術の開発でしたね。
清水:電子制御四駆と四輪操舵のハイキャス、しかもマルチリンクサスペンションといよいよウェポンが揃い始めていたのですね。
伊藤:そうです。
第六章 新しいサスを開発
伊藤:それはR32の企画をするときに、絶対にサスは変えると決めていました。スカイラインの前はFF車を担当していましたが、CG(カーグラフィック)の小林さんから「ところで最近の日産は技術で遅れてきたんじゃないですか?」と言われたのです。当時は7thスカラインはフロントがストラットタイプで、リアはセミトレでした。
清水:トヨタとかホンダが新しいサスを開発しているけど、日産はいまだにストラットのセミトレで進化していない。
伊藤:清水さんにも言われましたね。走りはスカイラインで頑張っているよと。
清水:7thは頑張っていないですけど(笑)
伊藤:それがアタマにあったのです。ストラット+セミトレは70年台にでた3代目スカイラインのGC10から使っていました。
清水:他社も新しいサスをやっていたしね。
伊藤:僕もシャシー屋だから興味があったのです。だからサスは全部やる。四輪ダブルウィッシュボーンで。最初はマルチリンクじゃなかったですけど、途中からマルチリンクになりました。
清水:中央研究所で先行開発していましたね。
伊藤:リアのマルチリンクですね。実際に実用化したのはR32の前のローレルからでした。
清水:200Km/hの世界を考えると、セミトレはいろいろ問題があったのですね。
伊藤:とにかくリアのスタビリティを確保することを重視していました。たまたまベンツのリヤサスペンションにE型マルチリンクが採用されました。日産もコレだ!と思ってやったのです。リアはマルチリンク、フロントも同じようにマルチリンクにすると私が決めたのです。
清水:前も後のサスも新しくする。時間も3年しかない。その間に煮詰めると決心しましたのですね。失敗をおそれずに挑戦したわけですか。
伊藤:ぼくもいろんなクルマやらせてもらいましたけれど、途中からのリリーフが多かった。R32で先発完投は初めて。最初の企画から最後まで責任持ってあたりました。
加藤:(評価ドライバー)伊藤さんが主管というのは安心感がありましたが、設計のエンジニアからはかなりおっかない方だったと思います。と言っていました。
清水:R32開発のときには伊藤さんは加藤さんにどういう指示をだしたのですか?
加藤:「オレはわかんないからお前の好きなようにしろと」。そう言われたらヤルしかないですよね。一番クルマに乗らない主管だったかもしれません(笑)
伊藤:アンタがいないときに乗っていたんだよ(笑)
加藤:私の前では絶対に乗らなかったですね(笑)
伊藤:日産はクルマの開発では組織の壁が強いのです。いわゆる部署間の壁というヤツですね。「あんたにそんなこと言われる筋合いはない」とか「ウチの部署の方針はこうだ」とか。実務的には実験部の中にでもドライバーがテストをし、それをエンジニアが聞いてから、私に報告する。
清水:ドライバーのとなりにチーママがいるのですね。
伊藤:ややこしいですね。伝言ゲームみたいに途中で意見が変わったり、ドライバーの意見がそのまま通らなかったり、ドライバーが何か言ってもエンジニアがオレの計算と違うと。
清水:設計エンジニアの色に染まるわけですね。
伊藤:そこで、栃木でエンジニアを集めて言ったのは、ドライバーの声は神の声だと思って聞けと。
清水:さすがです。
伊藤:エンジニアが自分の独断みたいなことでヘンなことでオレに報告するなと。必死にテストしているのは結局ドライバーですから。それまでははっきり言ってドライバーの発言力が弱かったのです。
加藤:というか厚木(設計部門)に呼ばれることがあまりなかったですね。厚木に行く機会が増えたのはR32からです。
清水:直接設計部門と何を話すようになったのですか?
加藤:評点は10段階なのでわかるでしょう。でも、コメントになってくるとエンジニアが通訳しないとわからない。ケツが流れたとか、リアの追従性が悪いとか、まあわかったような、分からないような言葉の伝言ゲームとなってしまいます。それが積み重なってくると、いつの間にか何がどうなっているのか、分からなくなりますね。伊藤さんはそれをキラってドラバーの話しを直接聞け!と設計部門に仰ってくれたのです。
伊藤:エンジニアに直せっていっても、直さないのです。なんやかんやと理屈を言って。
清水:当時の日産のエンジニアは理屈をこねる人が多かった記憶があります。
伊藤:結構いますね。そのエンジニアを怒っていたのです。相手の意見をチャント聞いておかないとね。
第七章 設計部門と評価部門が手を組んだ
伊藤:プリンスのときはホンネで議論していました。論争するときには職位の関係はなかったのです。部長だろうが課長だろうが新入社員だろうが。それは、中島飛行機の時代の精神が残っていたのですね。戦闘機はホントにいいものを採用しないと国が滅びるのですから。
清水:富士重工もそうですね。生きるか死ぬか、堕ちるか落とすか。
伊藤:そう言う風に叩き込まれていたからプリンスの血を受け継ぐ村山では技能員みたいな身分はなかった。日産でびっくりしたのは身分差があったのです。シャシー設計なのに課長と直接話をしたことありませんなんて。
清水:ホントにいいものとは何かってことでしょう。
伊藤:そう。それは本音でやる。社内の試乗会は嫌いなのだけどね。ぼくはいいけど、重役試乗会で「何々重役がこうおっしゃったとか」。僕はそんなの放っておけと言いましたよ。ドライバーが一番だと。そういう仕事をやらないと、R32みたいのはできない。
清水:なんでエンジニアをそういう風に教育しちゃうんでしょうかね。
伊藤:だから日産も1985年に久米さんが社長になって、社内を変えようといったときに、「~さん」と呼ぶことにしました。部長とか課長と呼ぶのをやめて。ぼくはもともとプリンス出身だったので、課長部長なんて言ったことない。だからやめましょうと。それくらいフラットな組織にして本音でやらないといけないと思いました。
清水:そこがポイントかもしれないですね。
伊藤:たとえばデザイナーもプライドが高いから、自分がやったデザインに文句を言われると素人が何言うのかって。だけどエンジン屋だって、実験屋だって、お客さんなのだから口を出していい。「自分がそう思ったら意見を言え」とみんなに言わせたのです。他の仕事に対して口だししろとね。エンジンなんて、こんなヘボイエンジンから、せっかく良い足を作ってもダメだとかね。こんなにエンジンが良くてもシャシーがコレじゃダメだとか。他人のところに土足で入って言い合いしました。
清水:いままではそんなことなかったですよね。やっぱり真剣に開発していたのですね。
加藤:やりたいようにやらせてもらったと思います。評価要素をたくさん描かされたという思い出はありますね。ポルシェ959、アウディスポーツクワトロ・グループB、10数年前に1000万円以上のクルマだらけ。あとはプジョー205ターボ16、ポルシェ944ターボは数知れず、ベンツは190の2.3リッター16。後はなにがあったかな?なんでも載せてもらったのです。ポルシェ911もあったしね。R32の開発にあたって、なんでも買ってくれた。959とかクワトロ、プジョーに乗れとね。「こいつら何を考えているのだろうか」と思ったことは覚えています。ポルシェ924、944,ドリフトやれと言われて、他の連中はみんなできない。こんなにやりやすいクルマないだろうって言ったら、お前見どころあるからきて運転しろとね。みんなはスピンする。オレはこんなにやりやすいクルマはないと思いました。結果は、バカ者扱いされてチームに呼ばれたのです。
清水:サスが全部変わってしかも四駆システムを装備して。
加藤:「これはタイヘンだなと」と。伊藤さんはオンロード四駆というイメージは持ってなかったですからね。生活四駆のちょっとスポーツ版くらいかな。それにしてもタイヘンだと。このクルマがGTRだなんて発表会まで知らなかった。写真なかったので、自分はGTXの開発担当者だと思っていました。
清水:GTRって知らされてなかったの?
加藤:はい。R32のハンドルって結構印象的なカタチで真ん中にGTRって描いてあるでしょ。オレが乗っていたテストカーはGTXって描いてあったのです。GTのトップモデルだけどGTRじゃないよとね。
清水:でもね、伊藤さん、なんで隠していたの?
伊藤:GTRっていうと、みんな興奮しちゃうから。いろんな情報も漏れたりするから最初からGTRは使わないつもりでした。
清水:GTXの「X」で「R」を隠したのですね。スバルのインプレッサと同じだ。WRXの「X」でWRCを隠したそうです。頭隠して尻隠さずw。
加藤:エンブレムまで作っちゃうんだもん。
伊藤:まずは見方から騙さないとね。GTRのエンブレムを実物で見せたのは、発表の何ヶ月か前に、ディーラーの店主とか社長とかに見せる場でした。ディーラーを呼んで説明会を開きましたが、車種のところはGTX。クルマだけGTRのバッチが付いている。
加藤:もう時効なので、現物お見せしようと思ったのですけれど、出てこないんですよ。記念
第八章 電子制御四駆
清水:四駆のスポーツカーの操縦性に苦労していましたね、最後まで曲がらなかった?
加藤:はぁ
伊藤:時間がなかったですね。四駆に決めたのが1987年ですから。四駆でやろうと思ったのですが、ミッションの設計部隊ができませんって言った。量産は初めてだしね。
清水:相当困りましたね
伊藤:とにかく耐久性が問題というなら、まずそれを確認しようとなりました。一応四駆で話を進めるけど、もしダメだという結果がでたら元に戻す。だからやれと「ゴー」をかけたのです。
清水:凄いチャンレンジですね
伊藤:死にものぐるいでした。そのときに同じような機構を持つ電子制御の多板クラッチがポルシェ959でパリダカとルマンに出場したのです。ポルシェも多板クラッチの耐久性で苦労しているというのは知っていた。こっちはもしダメならビスカスを使おうと思いました。そのためにスペースを25㎜くらい確保していました。
清水:センターデフに?
伊藤:そうです。だから市販車にもスペースが空いている。
加藤:関係者しかしらない秘密。
清水:保険かけた。
加藤:要はビスカスが隆盛を極めていた時代で、その時代と逆行するように、電気と油圧を使い重たいも乗せて、一体何のメリットがあるんだという人が社内にもいたのです。
清水:敵ですね。タイヤだバネだショックだというアナログのシャシー性能から一気にデジタルの世界に突入していったのですがセットアップはどうやって成し遂げたのですか。
加藤:全部自分でやるしかない。相談相手がいないしね。自分を信じるしかなかった。
清水:電子制御の操舵と駆動。ぐちゃぐちゃになりそうですね。
加藤:自分は最初からグチャグチャですから(笑)。エンジニアみたいに時間をかけてマトリクスを埋めていくのだったらいいのですが。
清水:勘でやっていたの?
加藤:そうですよ、時間もないし。そこは自分しか信じるものがなかった。伊藤さんも必死でしたからね。
清水:加藤さんが最後に悩んだところはどこなんですか?
加藤:リヤがステアして動いたのがわかる人がいると言われました。「オレにもわからないのにシロートがわかるかのかよ」って腹では思ったのですが、これを言われたらオレの負けだなって。自分も電子制御が効いている感じがわかるのは大嫌いですから。
清水:7thスカイラインのハイキャスは明らかにわかったよ。
加藤:アレはおれがやってませんから(笑)
清水:それをわからせないように自然なコーナリングを目指した?
加藤:そうです。ところが時間がなくて、カウンターあてる領域は見ていなかったのです。そしたら、試乗会のときに清水さんがドリフトして走っていてカウンターあてるとお茶目な動きするぞって言われました。
清水:雑誌NAVIに書きましたね。「死に馬に蹴っ飛ばされ感じだ」と。
加藤:参りましたね。
清水:先輩もいない、手本もない、論文もない、まったく新しい領域の技術だったので孤独でしたね。
加藤:はい。四駆のABSも初めて。忘れもしない、村山のバンクに入るときに、入り口で探るじゃないですかブレーキを。そしたら、そのままバンクを登っちゃったのですよ。ABSがバカになっちゃって。それを言ってもエンジニアが信じない。彼らのアタマの中にそんなことはあり得ないわけです。つまり全開のまま左足でブレーキを踏むと言うロジックがないわけですよ。それが四駆なわけで、余計にアタマがこんがらがる。「だったらおまえがヤレ」ってなりました。
清水:そこまでチャレンジした当時のモチベーションは?負けたくないという気持ちですか。
伊藤:そうですねゴールまでは責任を果たさないといけないという責任感です。
清水:ゴールとは欧州車と肩を並べるということですね。
伊藤:いや、抜くということ。だって90年に世界一って言ってしまったからはね。
第九章 ユニークなコストダウン
伊藤:いちいち説明しなくても、観る人、乗る人が感じてくれるものを作りたかった。だから、やりすぎるくらいやった。
清水:どのあたりが大変だったのですか?
伊藤:車重をR31に比べて140Kgに軽くしろと設計部門に言いました。
清水:当時の軽量化技術では140Kgはタイヘンですけどね。
伊藤:重量にしろ、減価にしろエンジンは何キロ、シャシーは何キロと分担させました。実は140Kgはえいやで決めた数字ですけどね。それくらいじゃないと世界一にはなれないと思いました。
清水:車体剛性が低下する恐れは?
伊藤:強度が落ちた意味がない。設計にプレシャーを与えました。経営サイドはコストで苦しんでいました。
清水:どう説得したのですか
伊藤:R31の7割(コスト)でやりますと言い切りました
清水:R31よりも軽く低コスト。で、性能は世界一(驚)
伊藤:コストで何をしたかというと、徹底的にムダを省く。例えば、輸出を辞めました。英国兼にはあったけれど、それがどれだけスカイラインのプロジェクトに寄与したか。また、車種を減らしましたね。
清水:R31は沢山のモデルがありましたからね。
伊藤:結果的に収益は悪かったのです。車種を減らすということは、開発が減る。試作車を作らなくていいし、エンジンも車体も作らなくすむ。
清水:つまり、車種全体でコストダウンしたのですね。乾いたタオルをトヨタは絞ると言いますが。
伊藤:それをやるとクルマがヘンなところにいっちゃう。スカイラインは商品性を損なうようなところでコストを下げるのはダメだと。
加藤:横から見てもサイドマーカーもフロントバンパーにクリアランスランプがない。前から見るとヘッドランプしかない。輸出しないからできた。
清水:加藤さん、伊藤さんってどんな人?前にして言いにくいと思うけど。
加藤:もともとの親分なんですね。人に聞かないで、自分で調べて、納得するまで動かない。伊藤さんの掌の上で遊ばされた感じでしたね。非常に心地よく。
清水:なんかあればオレが責任とるって言っていますけど。
加藤:伊藤さんに責任とらせちゃまずいのです。こんなにやりやすい状況はないわけだから。
伊藤:ところでR32はテスト中はホントに事故がなかったです
加藤:ちょうどムスメが生まれるときです。日産の村山工場の近くに住んでいて、社宅からテストコースまで30分くらい。当時はRB26がよく壊れたのですよ。壊れるとエンジン屋さんが何で壊れたのか報告しないといけない。厚木に持って帰ってエンジン降ろして積んでね。走行初めると煙拭いてまた壊れる。いまでこそエンジンのターボ交換を上からするのが常識ですけど、それはオレが始めたのです。日産のプロトコルはエンジン降ろして作業することでした。でもそんな時間はないのです。会社は六時で大体終わりですがいったん家に帰ってメシを喰って、八時頃になるとまた作業所に入るのです。
清水:夜中にターボを交換したのですか?
加藤:そうです。いまじゃダメですけど。当時はね。でも楽しかった。というよりも「このサスどうなるのか」取り憑かれていましたからね。走らないことには結果が出せないですから。
清水:後輩にはどんなアドバイスをしていますか?
加藤:プロジェクトの人間に言ってまたのが、クルマは人々の幸せのためにある。そのクルマを使ってくれる人が幸せだって思えるクルマを作れと。
そういうクルマにするために、いろんな携わる人が魂込めて作れば、乗る人に伝わる。作る側も楽しい、幸せです。
清水:スカイラインは面白いメンバーでしたね。
加藤:一癖、フタクセ、でもそういうのが、仕事ができるんじゃないですか。
清水:秀才集めたわけじゃなくて野武士を集めた。
加藤:80点の優等生が集まっても面白くない。コレだって言う人
清水:これから大事ですよね。個性の時代だから。クルマ作りだけじゃない。人間が個性的じゃないと個性的なクルマはできない。
加藤:伊藤さん、キャラ変わりましたね。
伊藤:ぼくも好き勝手に生きています。
清水:いや二人とも14年前に聞いた話と軸がブレていません(笑)